『Seventh Code』について

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映画『Seventh Code』はもともと前田敦子の楽曲のミュージックビデオとして黒沢清の監督のもとに制作された。全編ロシアで撮影されたこの映画は、60分という短編ながら、またミュージックビデオという前提で作られていながら、極めて質が高く論じるところの多い作品だ。


『Seventh Code』を見てまず感じるのは、対象の引きのショットが非常に多いということだ。例えばレストランの中にいた秋子が窓の外に松永に似た男を認め、外に出ていったあとのシーン。実際には人違いだったその男と彼を引き止める秋子は非常に遠くから映されている。また、ラストシーン。秋子の乗る車とその後を追うもう一台の車の長回し。道路のずっと先、二台が地平線に限りなく近づいたとき、銃声が何発も響き、引きのショットのまま二台の爆発が遠くに映る。寺田寅彦は評論『映画芸術』の中で「芸術としての映画が他のいろいろの芸術に対していかなる特異性をもっているか*1」を論じている。そこでは劇や舞台と映画の差異についてこう語っている。

劇や舞台の現象自身は三次元的空間的であるにかかわらず、観客の位置が固定しているためのその視像は実に二次元的な投射像に過ぎない。これに反して映画のほうでは、スクリーン上の光像はまさしく二次元の平面であるにかかわらず、カメラの目が三次元的に移動しているために、観客の目はカメラの目を獲得することによってかえってほんとうに三次元的な空間の現象を観察することができる*2

『Seventh Code』の過剰なまでの引きのショットは、寺田の述べるように映画だからこそなせる業だ。


塩田明彦は『映画術 ― その演出はなぜ心をつかむのか』の中で次のように語っている。

映画が本当に面白いのは(中略)上辺で語られている物語がある一方で、それとは別の次元で、もうひとつの物語がスタイルとして語られているからです。(中略)語られている物語に対して複数の次元を作り出していく、それが映画における演出というものです。そうやっていくつもの水準で語っていくことによって、映画はある「豊かさ」を獲得していきます。そういう映画こそが、世代や国境を越えて残っていくわけです*3

秋子と松永が松永の自室で死闘を繰り広げるシーンでは、まさにこの言葉の真髄が堪能できる。

路上で再開した秋子をマンションの二階の自室に招き入れたあと、誰かから電話がかかってきて秋子をおいて一度階下の部屋に降りる松永。松永はそこで組織の女性と思われる人物から秋子を殺すように言われ、スタンガンを持って自室に戻る。すると秋子の姿がなく、松永は自室の中を歩きまわって秋子を探す。少しずつ奥の部屋へ向かう松永。この時カメラは松永の視点と完全に同一化している。塩田は『映画術』の中で成瀬巳喜男『乱れる』(1964)における「ひとつ屋根の下に暮らす家族の、平凡な日常の光景*4」である夕食の時間の姉と弟のシーンについて、

物語のレベルでは、特に大変なことが起きているわけではないんです。なのにハラハラするのは、別に閉める必要もない襖を、姉が無意識にどんどん閉めていくため、二人が徐々に密閉空間に追い込まれていくからです*5

と評しているが、徐々に奥へ奥へと移動し秋子を探す松永のこの移動シーンにはまさしくこれと同じような緊張が持続する。
そして、寝室にて松永はようやくベッドの端に腰掛けている秋子を見つける。ある程度のあいだ「不在」として宙吊りにされていた秋子がここで発見されることに、私たちはしばしのカタルシスを得る。秋子はカメラに対して左斜め前を向いており、こちらに顔は向けていない。松永が近づくにつれてこちらに顔を向ける秋子。音楽も音もなく両者の視線だけで描かれるこのシーンではさらなる緊張が走る。松永はおもむろに秋子にスタンガンを当てようとするが、つぎの瞬間、秋子は身を翻してスタンガンを避ける。松永の手を掴み身体を柔道のように地面に叩きつけ、身体に蹴りを入れる秋子。「不在」が解決されてカタルシスが生まれた直後に新たな緊張が生じ、さらに、ここで最大のカタルシスが発生する。それはただ単に松永に反撃する秋子という図によるものにとどまらない。東京で一度会っただけの男に会うためにはるばるロシアまでやってきて、しかもその地で無一文となってしまったという奇矯な人間かつ弱者として当初から描かれ続けていた秋子が、実はどうやらそうではないらしいという大いなる逆転がこの一瞬にして行われるのだ。少し先に至らなければ秋子の正体は完全には判明しないが、この時点でのカタルシスは圧倒的だ。その後、秋子と松永の死闘が繰り広げられる。
ピストルまで持ち出した松永に対して終始秋子の優勢に続くこのアクションシーンの最後は、秋子が松永を殺すことで終わる。秋子は気絶して床に伏した松永の頭部にクッションをあてがい、その上から垂直にピストルを放ち松永を殺してしまうのだ。クッションからは羽毛が飛び散る。先に記したように松永がマンションの二階の自室から一旦階下の部屋に降り、もう一度自室に戻るという垂直運動があった。その際に松永は女性から秋子を殺すように言われたのだった。その後に描かれたのは秋子を探して徹底的に横に移動する松永。そして最後に、秋子を殺すはずだった松永がピストルによる上から下への垂直運動でかえって殺され、直後に羽毛が下から上へ飛ぶ。縦移動が「殺し」というファンクションを帯びて横移動に進み、最終的には「殺し」が逆の形で顕在化して縦移動に解決するのだ。横の移動から縦の移動に解決されるという一連の流れは、黒沢清の最新作『ダゲレオタイプの女』で、それまで徹底的に横に移動していたカメラがヒロインのマリーが階段を垂直に落下するシーンを不気味に映したことを思い出す(蓮實重彦はこのシーンについて「女が階段から垂直に転落すれば、幽霊になるに決まっている*6」とコメントしている)。また、羽毛についてだけ言えば、ジャン・ウィゴによる『新学期 操行ゼロ』(1933)における、寄宿学校の寮生たちが部屋中に羽毛を撒き散らす最も印象的かつ美しいシーンをも想起させる。
しかし、それよりもここには、フローベールボヴァリー夫人』の冒頭に描かれた以下のシーンにおける「描写の産出性」と似たものを感じざるを得ない。

その帽子は卵型で、鯨のひげの芯で中ほどが膨らんでいたが、まず腸詰状のものが三重にぐるりと縁をめぐり、次にビロードとウサギの毛皮の菱形模様が赤い筋をはさんで交互に並び、それから袋状にふくらんで、しまいには厚紙でつくった多角形の様相を呈し、そこに複雑なリボン刺繍が施されていて、そこからやけに細くて長い紐が垂れ、その先に留め紐の房のつもりか、金糸を撚った小さな十字形がぶらさがっていた。帽子は新品で、庇が光っていた。/「起立」と教師が言った。/新入生は起立し、帽子が落ちた*7

新入生(シャルル)の帽子が下から上へ描写され、帽子の先からは上から下へ糸が垂れている。その後シャルルが下から上へ起立すると、帽子が上から下に落下する。下から上、上から下という描写が、次に続く同じ移動を産出しているのだ。なぜ松永の自室はマンションの一階ではなく二階でなければならなかったのか。なぜ松永は立っている状態ではなく床にうつ伏せの状態でピストルによって殺されなければならなかったのか。松永の上から下、下から上への移動が、ピストルの上から下への弾道とそれにともなう下から上への羽毛の動きを産出したのではないか。
以上のように秋子と松永の繰り広げる以上の一連のシーンは、「語られている物語」の外部にある「複数の次元」によって非常に「豊かさ」のあるものとなっている。塩田が「映画は、アトラクションでしかない場面と、重要な芝居の場面があるわけじゃなくて、すべてが重要なわけです*8」とも語っているように、アクションシーンでさえも自身の「豊かさ」を担保するものとして極めて重要であるわけだ。

*1:寺田寅彦(1932)『映画芸術青空文庫

*2:注釈1に同じ

*3:塩田明彦(2014)『映画術 — その演出はなぜ心をつかむのか』イースト・プレス

*4:注釈3に同じ

*5:注釈3に同じ

*6:映画『ダゲレオタイプの女』公式サイト(2015)
<http://www.bitters.co.jp/dagereo/comment.html>

*7:ギュスターヴ・フローベール,芳川泰久訳(2015)『ボヴァリー夫人新潮文庫

*8:注釈3に同じ