『Seventh Code』について

f:id:mfvlt:20170710025700p:plain

映画『Seventh Code』はもともと前田敦子の楽曲のミュージックビデオとして黒沢清の監督のもとに制作された。全編ロシアで撮影されたこの映画は、60分という短編ながら、またミュージックビデオという前提で作られていながら、極めて質が高く論じるところの多い作品だ。


『Seventh Code』を見てまず感じるのは、対象の引きのショットが非常に多いということだ。例えばレストランの中にいた秋子が窓の外に松永に似た男を認め、外に出ていったあとのシーン。実際には人違いだったその男と彼を引き止める秋子は非常に遠くから映されている。また、ラストシーン。秋子の乗る車とその後を追うもう一台の車の長回し。道路のずっと先、二台が地平線に限りなく近づいたとき、銃声が何発も響き、引きのショットのまま二台の爆発が遠くに映る。寺田寅彦は評論『映画芸術』の中で「芸術としての映画が他のいろいろの芸術に対していかなる特異性をもっているか*1」を論じている。そこでは劇や舞台と映画の差異についてこう語っている。

劇や舞台の現象自身は三次元的空間的であるにかかわらず、観客の位置が固定しているためのその視像は実に二次元的な投射像に過ぎない。これに反して映画のほうでは、スクリーン上の光像はまさしく二次元の平面であるにかかわらず、カメラの目が三次元的に移動しているために、観客の目はカメラの目を獲得することによってかえってほんとうに三次元的な空間の現象を観察することができる*2

『Seventh Code』の過剰なまでの引きのショットは、寺田の述べるように映画だからこそなせる業だ。


塩田明彦は『映画術 ― その演出はなぜ心をつかむのか』の中で次のように語っている。

映画が本当に面白いのは(中略)上辺で語られている物語がある一方で、それとは別の次元で、もうひとつの物語がスタイルとして語られているからです。(中略)語られている物語に対して複数の次元を作り出していく、それが映画における演出というものです。そうやっていくつもの水準で語っていくことによって、映画はある「豊かさ」を獲得していきます。そういう映画こそが、世代や国境を越えて残っていくわけです*3

秋子と松永が松永の自室で死闘を繰り広げるシーンでは、まさにこの言葉の真髄が堪能できる。

路上で再開した秋子をマンションの二階の自室に招き入れたあと、誰かから電話がかかってきて秋子をおいて一度階下の部屋に降りる松永。松永はそこで組織の女性と思われる人物から秋子を殺すように言われ、スタンガンを持って自室に戻る。すると秋子の姿がなく、松永は自室の中を歩きまわって秋子を探す。少しずつ奥の部屋へ向かう松永。この時カメラは松永の視点と完全に同一化している。塩田は『映画術』の中で成瀬巳喜男『乱れる』(1964)における「ひとつ屋根の下に暮らす家族の、平凡な日常の光景*4」である夕食の時間の姉と弟のシーンについて、

物語のレベルでは、特に大変なことが起きているわけではないんです。なのにハラハラするのは、別に閉める必要もない襖を、姉が無意識にどんどん閉めていくため、二人が徐々に密閉空間に追い込まれていくからです*5

と評しているが、徐々に奥へ奥へと移動し秋子を探す松永のこの移動シーンにはまさしくこれと同じような緊張が持続する。
そして、寝室にて松永はようやくベッドの端に腰掛けている秋子を見つける。ある程度のあいだ「不在」として宙吊りにされていた秋子がここで発見されることに、私たちはしばしのカタルシスを得る。秋子はカメラに対して左斜め前を向いており、こちらに顔は向けていない。松永が近づくにつれてこちらに顔を向ける秋子。音楽も音もなく両者の視線だけで描かれるこのシーンではさらなる緊張が走る。松永はおもむろに秋子にスタンガンを当てようとするが、つぎの瞬間、秋子は身を翻してスタンガンを避ける。松永の手を掴み身体を柔道のように地面に叩きつけ、身体に蹴りを入れる秋子。「不在」が解決されてカタルシスが生まれた直後に新たな緊張が生じ、さらに、ここで最大のカタルシスが発生する。それはただ単に松永に反撃する秋子という図によるものにとどまらない。東京で一度会っただけの男に会うためにはるばるロシアまでやってきて、しかもその地で無一文となってしまったという奇矯な人間かつ弱者として当初から描かれ続けていた秋子が、実はどうやらそうではないらしいという大いなる逆転がこの一瞬にして行われるのだ。少し先に至らなければ秋子の正体は完全には判明しないが、この時点でのカタルシスは圧倒的だ。その後、秋子と松永の死闘が繰り広げられる。
ピストルまで持ち出した松永に対して終始秋子の優勢に続くこのアクションシーンの最後は、秋子が松永を殺すことで終わる。秋子は気絶して床に伏した松永の頭部にクッションをあてがい、その上から垂直にピストルを放ち松永を殺してしまうのだ。クッションからは羽毛が飛び散る。先に記したように松永がマンションの二階の自室から一旦階下の部屋に降り、もう一度自室に戻るという垂直運動があった。その際に松永は女性から秋子を殺すように言われたのだった。その後に描かれたのは秋子を探して徹底的に横に移動する松永。そして最後に、秋子を殺すはずだった松永がピストルによる上から下への垂直運動でかえって殺され、直後に羽毛が下から上へ飛ぶ。縦移動が「殺し」というファンクションを帯びて横移動に進み、最終的には「殺し」が逆の形で顕在化して縦移動に解決するのだ。横の移動から縦の移動に解決されるという一連の流れは、黒沢清の最新作『ダゲレオタイプの女』で、それまで徹底的に横に移動していたカメラがヒロインのマリーが階段を垂直に落下するシーンを不気味に映したことを思い出す(蓮實重彦はこのシーンについて「女が階段から垂直に転落すれば、幽霊になるに決まっている*6」とコメントしている)。また、羽毛についてだけ言えば、ジャン・ウィゴによる『新学期 操行ゼロ』(1933)における、寄宿学校の寮生たちが部屋中に羽毛を撒き散らす最も印象的かつ美しいシーンをも想起させる。
しかし、それよりもここには、フローベールボヴァリー夫人』の冒頭に描かれた以下のシーンにおける「描写の産出性」と似たものを感じざるを得ない。

その帽子は卵型で、鯨のひげの芯で中ほどが膨らんでいたが、まず腸詰状のものが三重にぐるりと縁をめぐり、次にビロードとウサギの毛皮の菱形模様が赤い筋をはさんで交互に並び、それから袋状にふくらんで、しまいには厚紙でつくった多角形の様相を呈し、そこに複雑なリボン刺繍が施されていて、そこからやけに細くて長い紐が垂れ、その先に留め紐の房のつもりか、金糸を撚った小さな十字形がぶらさがっていた。帽子は新品で、庇が光っていた。/「起立」と教師が言った。/新入生は起立し、帽子が落ちた*7

新入生(シャルル)の帽子が下から上へ描写され、帽子の先からは上から下へ糸が垂れている。その後シャルルが下から上へ起立すると、帽子が上から下に落下する。下から上、上から下という描写が、次に続く同じ移動を産出しているのだ。なぜ松永の自室はマンションの一階ではなく二階でなければならなかったのか。なぜ松永は立っている状態ではなく床にうつ伏せの状態でピストルによって殺されなければならなかったのか。松永の上から下、下から上への移動が、ピストルの上から下への弾道とそれにともなう下から上への羽毛の動きを産出したのではないか。
以上のように秋子と松永の繰り広げる以上の一連のシーンは、「語られている物語」の外部にある「複数の次元」によって非常に「豊かさ」のあるものとなっている。塩田が「映画は、アトラクションでしかない場面と、重要な芝居の場面があるわけじゃなくて、すべてが重要なわけです*8」とも語っているように、アクションシーンでさえも自身の「豊かさ」を担保するものとして極めて重要であるわけだ。

*1:寺田寅彦(1932)『映画芸術青空文庫

*2:注釈1に同じ

*3:塩田明彦(2014)『映画術 — その演出はなぜ心をつかむのか』イースト・プレス

*4:注釈3に同じ

*5:注釈3に同じ

*6:映画『ダゲレオタイプの女』公式サイト(2015)
<http://www.bitters.co.jp/dagereo/comment.html>

*7:ギュスターヴ・フローベール,芳川泰久訳(2015)『ボヴァリー夫人新潮文庫

*8:注釈3に同じ

6/22

iPhone修理のため渋谷のAppleStoreを予約していたが遅刻しキャンセルとなった。その後アルバイト。アルバイトに関する記憶は一切なし。

6/23

前日に続き渋谷に訪れる。iPhoneの本体交換で莫大なお金を失って悲しくなった。それと関係あるかは分からないが、その後体調をくずす。

6/24

サークルの新入生の発表ライブ。コピーのPavement松任谷由実はっぴいえんども、それからオリジナルもすごかった。Pavementではこの前の春合宿で僕がコピーでベースを弾いた「Spit on a Stranger」という曲もやっており、僕たちのコピーと比べてあまりにも完成度が高くて驚いた。2ndアルバム『Crooked Rain, Crooked Rain』からの曲もやっていたみたいだが、世間的には評判の高いこのアルバムが僕には何故だがあまりしっくり来ず、『Brighten the Corners』とか『Terrot Twilight』ばかり聴いている。ライブ後には16時頃から22時頃まで鳥貴族でまったくお酒を飲まずに打ち上げをした。友人が渋谷の街でハンドスピナーを買ってきてその6時間くらいの間ずっと回し続けていた。

6/25

アルバイト。休憩時間に仲の良い社員と新宿の靖国通りに面している「ゲウチャイ」というタイ料理屋へ。マームとジプシー ひび『ひびの、ひび/3×3=6。9月じゃなくて』を一緒に見もした仲だ。以前にも二人で訪れたのだがその時にはランチタイムが終わっており、その後ランチタイムを経験したこの社員と共に僕は初のランチにチャレンジ。鴨肉入り特製スープビーフンのランチセットを頼む。アイスコーヒーと唐揚げ?とレッドカレーとデザートとして謎の白い液体(中にタピオカやコーンが入っている。あとから調べたところココナッツミルクらしい)もついてくる。

f:id:mfvlt:20170627021535j:plain

麺の太さが選べたので一番太くしてみたところ(10mm)なかなか箸に引っかからず食べるのに時間がかかったけれど、とても美味しかった。しかしなんといってもカレーの味は格別。夏はカレーが食べたくなる。次に来たらカレーがメインのセットにしよう。

6/26

授業で贅沢貧乏の「家プロジェクト」の映像を少しだけ見せてもらった。贅沢貧乏は映像を発売していない劇団だし「家プロジェクト」は見たかったとはずっと思っているのだが見たことがなかったので、少しだけでも映像が見られたことにまず感動。何の変哲もないアパートの一室で、僕が今まで想像していたよりもずっと観客と近い場所で芝居をする俳優。本当に面白そう、本当に見たかった。そして映像の途中でアパートの外から救急車のサイレンの音が聞こえてくる。劇場でやる通常の演劇ではまずあり得ない外からの意図せぬ要素が演劇に入り込む。そうした「街」の要素がひとつの演劇の世界を形作っていることにさらに感動してしまって、サイレンの音がなった瞬間に一瞬泣きそうになってしまった。僕はよく分からないところで泣きそうになるところがあって、例えば先月のナカゴー『紙風船文様』で夫役の古関昇悟が妻である川上友里に「良かろう」、「それも良かろう」という言葉遣いをするところになぜだか涙腺をくすぐられた。この授業では後期に一学期通して贅沢貧乏を扱うらしく、そこでまた「家プロジェクト」の映像が見られないかなと期待している。そういえば、ゲッコーパレードが今週鹿児島のホテルでやる『ここだけの話』という演劇も「家プロジェクト」と似ていて面白そう。ホテルのチェックインから翌朝の朝食会場までが演劇の舞台で、観客は実際にそのホテルに一泊二日で滞在して演劇の世界に入り込むというものらしい。行くことが出来ないのが口惜しくてならない。帰宅すると『ゲンロン』の第5号が届いていた。特集は幽霊的身体。演劇批評の号だ。別役実『壊れた風景/象』を読み始める。 

 

上記のうちのいつの日だったか忘れたが真造圭伍の短編集『台風の日』を途中まで読んだ日があった。そのあまりの面白くなさにちょっとびっくりした。真造圭伍を読んだのは初めてだったが(雑誌『ユースカ』に掲載されていた短編は読んだことがあったかもしれない)、どこに面白みを見出せばいいのか分からない。美大出身だというその絵も稚拙は措いて、全く魅力的じゃない。あるいはいつだったかの「このマンガを読め!」のオトコ編で1位だった『ぼくらのフンカ祭』だとか何巻か続いている『トーキョーエイリアンブラザーズ』は面白く読めるのだろうか。とにかくどうして真造圭伍が評価されているのか分からなかった。

6/18

昼に起きてそのままアルバイトをして寝た、と思う。アルバイトの休憩で久々にDUGに行った。煙草とコーヒーとほんの小さなミートパイで気分はワタナベトオル。ワタナベトオルが煙草を吸っていたかどうかもDUGでミートパイを頼んでいたかどうかも覚えていないが。バド・パウエル・トリオの「There Will Never Be Another You」が流れていた。「あなたなしでは」という邦題はすごい。

6/19

授業で、青年団リンク ホエイ『麦とクシャミ』を途中まで見た。耳が遠い、という人物が出てくるのだが、読みかけの三好十郎『浮標(ブイ)』でも耳が遠い人物が出てくるので奇妙な親和があった。見終えたあと戯曲のコピーをもらう。一応売り物ではあるから来週各自300円払うようにと先生が言っていた。演劇に関することにはお金を喜んで払いたいものだ。早稲田から渋谷に、そして三軒茶屋へ。三軒茶屋に来たのは二回目だと思う。その時は友人と古着屋を物色した。と思ったが、昨年の今頃に当時付き合っていた彼女と友人と三人で遊びに来たこともあったので三回目かもしれない。シアタートラムでチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』を見た。昨年の京都公演では上演時間が2時間くらいあったったようだが今回は75分。どう変わったのだろう。新潮の2016年4月号に戯曲が掲載されているようなのでいずれ買おう。青柳いづみの語りが催眠音声に酷似していた。時制がどうなっているのか、ということに言及している感想が散見されたが、語る私と語られる私には距離があるもので、「以前の彼女」の幽霊が語っている過去の出来事を「新しい彼女」が通常知り得ないはずだとしても別におかしくはないのではないか。英語字幕が渋かった。「以前の彼女」の声が聞こえない(聞こえていないふりをしている?)男に、ここでも「聾」というモチーフを見出すのは、牽強付会がすぎるだろうか。舞台が始まる前に駅付近でサンプルの野津あおいを(次の日の『ブリッジ』に出演している)、終演後に森山未來を、見かけた。

6/20

潜っているゼミでは毎週4年生が卒論の草案について発表する時間があり、この日は三好十郎『浮標』の発表だと以前から決まっていた。そのために『浮標』を読んでいたのだが、起きられず行けなかった。これだけ行けないと、やはり正規のゼミ生でなくて良かったのかもしれない。iPhoneが壊れて動かせなくなり、かなり狼狽した。夕方に小田急線や南武線東横線を使用して横浜へ。KAAT 神奈川芸術劇場でサンプルの『ブリッジ』を見た。元々今年の一月に3331 Arts Chiyodaでワーク・イン・プログレス公演として上演された『ブリッジ〜モツ宇宙へのいざない〜』に続く本公演という立ち位置の作品。一月の公演も見にいっていたので楽しみにしていた。『部屋に流れる〜』と同じく白いカーテンを張った舞台。しかしこちらのカーテンは開くこともある。白い幕をたててその向こうで影として映された俳優が演技する、という演出は良かった。性的なシーンをやるのにはうってつけだったし、かえっていやらしく見えた。演劇本編はコスモオルガン協会という宗教のセミナーで、観客はそれを見に来た客という設定。その中でコスモオルガン協会の各メンバーの過去が、観客と演者が相互に「つくりもの」だという認識を共有している「劇中劇」として繰り広げられる。『ブリッジ』の戯曲と雑誌『サンプル』のVol.2を買って帰る。5月に青年団リンク キュイ『TTTT』を見た際にアトリエ春風舎で買った戯曲批評誌『紙背』の創刊号に『ブリッジ〜モツ宇宙へのいざない〜』の戯曲が掲載されているのだが読んでいなかったので、帰りの電車で読んだ。あっと言う間に読み終わる。KAATに来るのは考えてみれば二回目だ。初めてきたときは岡田利規作・演出の『わかったさんのクッキー』を見たのだった。もっと中華街から外れたところにあったと思っていたが、思った以上に中華街に近かった。時間があれば中華街をぶらぶらしたかった。

6/21

未明から、岩井秀人作・演出『その族の名は「家族」』のDVDを見始めた。ハイバイ『ワレワレのモロモロ 東京編』ではあんなにサイコパスな役を演じていた荒川良々が、きわめてまともな役だった。時間を巻き戻す演出はうまく出来ていたけど、それほど何らかの機能を果たしているとは思えなかった。あの裏でそういうことがあったのか、というカタルシスはあった。ユースケ・サンタマリアとと岩井秀人が演じる女性役とはすべて代替可能のように思えた。特殊公演『七つのおいのり』の一つ目、『あなたのために』で岩井が演じるデパートの地下のおばさん店員をユースケ・サンタマリアが演じてみるのも面白そうだ。アルバイトはそれほど楽しくなかった。いつもは楽しいのだが。アルバイトの後に最近入ってきた23歳の男性パートナーと新宿三丁目近くでピザを食べた。建築の道を志しているそうで、建築家の名前を教えてもらったのだが、全く記憶できなかった。僕はコルビジェ安藤忠雄しか知らない。あるいはガウディ。安藤忠雄には髪型が似ていると友人に言われたことがある。多少建築に関係する話題として、「搬入プロジェクト」や危口統之のことを少しだけ会話に出した。

 

5月、6月はかなり頻繁に演劇を見たためお金がかかった。7月はあまり観劇予定がなさそうだから財政が落ち着くな、と思っていたけれど、調べてみたら見たいものがたくさんあったのでまた困窮することになる。玉田企画、範宙遊泳、マームとジプシー、青年団、鳥公園、ハイバイあたりは少なくとも行かなければなるまい。根本宗子や井端珠里白石和彌監督『牝猫たち』ですっかりファンになってしまった)の出演する『鳥の名前』も楽しみ。

最近はThe Banzai Babiesというバンドのアナログが欲しい。Beach Fossilsの新譜は良く聴いている。あとはサニーデイ・サービスの「きれいだね」をしきりに聴いている。V♯が憎いね。


The Banzai Babies - She's A Rainbow


サニーデイ・サービス - きれいだね

6/11 

漫画が大量に届いた。木尾士目『陽炎日記』、『四年生』、『五年生』、安達哲ホワイトアルバム』、『幸せのひこうき雲』、真造圭伍『台風の日』、岡崎京子『くちびるから散弾銃』など。友人と卓球をした。

6/12

アルバイトをした。

6/13

ゼミの三年生歓迎会があった。演劇・戯曲のゼミ。僕は潜っているだけで正規のゼミ生ではないけれど参加させてもらった。先生が作ってきてくれた料理や四年生が買ってきてくれたパン、フルーツポンチ(どちらもお洒落)などを教室で食べつつゼミの人たちと話した。4月から始まったゼミだが結構行っていなかったので初めて話す人も多かった。僕の横では映画の話が盛り上がっていて、エドワード・ヤンジャン・ヴィゴくらいしか分からなかった。先生とも初めて長めに話すことができた。ハイバイの話や『クヒオ大佐の妻』の話を少しした。演劇や音楽に関する記事が好きで一方的にブログを読んでいた先輩とも話すことができた。とても楽しかったのでこのゼミに入っていれば良かったと思った。

6/14

原宿をうろうろした。コンバースの紐とFLAGSTUFFのTシャツを購入。BIG LOVEに寄ると小山田米呂がいた。長い間意図的にコーネリアスを聴いていなかったのだが最近公開された新曲2曲はどちらも良かった。

www.youtube.com

就活中の先輩と夜に合流し新宿で食事をした。この日は文藝春秋の最終面接だったらしく惜しくも落ちてしまったようだが卒業できるかもわからない僕にとっては最終に残るだけで雲の上のような出来事。面接で、日本では演劇や戯曲があまりにも不遇なので文芸誌が戯曲を取り上げることで演劇を流行/隆興させていくのはどうだろうか、という話をしたらしい。確かに周りで演劇を見ている人はあまりいない。映画を勉強しているわけではない人でも名画座で昔の映画を見るように別に演劇を勉強している人でなくてもみんな演劇も見ればよいのになと思う。ロロのいつ高シリーズはイメージイラストに西村ツチカを使ったり、(高校演劇を踏襲しているということにはなっているが)上演時間が60分と短めだったり、作中でサニーデイ・サービスが流れたり(個人的にはVol.4で小沢健二のネタが出てきたのが嬉しかった)と、演劇以外の文脈の人たちを取り込もうとしているようにも思える(シベリア少女鉄道の公演のタイトルが、今時のライトノベルのようないかにもなタイトルだったりイメージイラストにふみふみこのイラストを使っているのも、あるいはそういう狙いもあったりするのだろうか)。僕の周りの普段演劇を見ない人も、いつ高を見に行っていた人は何人もいる。Vol.4上演にあわせてYouTubeでVol.1とVol.2が無料で公開されたことも、DVDがほとんど売られていなかったりレンタルされていなかったりする演劇というメディアにあって、向こうもこちらもコストがかからないやり方で上手く新しい客を生み出せている(YouTubeに演劇の映像をアップロードするというやり方が画期的であるとは言わないが)。瀬田なつき監督の『PARKS』とコラボして井の頭公園で一日だけ上演された『パークス・イン・ザ・パーク』も忘れてはならない。あれにもし橋本愛が出ていたら更にすごかったのかもしれないが。他にも渋谷のTSUTAYAが観劇三昧とコラボして演劇のDVDのレンタルを始めたり、戯曲批評誌の『紙背』が創刊されたり、だんだん演劇が熱くなってきている気がする。

6/15

友人と卓球をした。石井裕也監督『映画 夜空はいつでも最高密度の青空だ』を見た。

mfvlt.hatenablog.com

マッチの火が街の灯りに変わっていくシーンや、右目だけで見る青い月がビル群に重なりながらフェードアウトしていくシーンなど美しい瞬間がいくつもあった。ずっと池松壮亮を意味もなく嫌っていたのだけど、かなり好きになった。

6/16

大学の図書館でエイブラハム・ポロンスキー監督『悪の力』(1948)を見た。

6/17

東京芸術劇場でFUKAIPRODUCE羽衣『愛死に』を見た。単純なので客入れでベートーヴェンの「悲愴」が流れ始めた時点でもう、「良い」となってしまったが結果的にも良い作品だった。ほとんどの時間はミュージカル風の歌が歌われたり俳優がのべつ幕なしに喋っていたりするのだけど、それでもなぜだかとても静謐な演劇だなと思った。それと、カップルたちが性行為をしながら語るシーン。「このセックスが終わったら銭湯に行こうね」などの台詞が登場し、夜の街であろう方向を見たり窓を開ける仕草をしたりするのだが、街を表す光も大道具・小道具も何もないそのシーンが、ある意味で、例えば『夜空は〜』よりもずっと「街」を美しく表現していた(もちろん『夜空は〜』は素晴らしかったのだけれど)。それと、どうでもいいことだが、最後に登場した「茜色水路」という曲の一部がGrouploveの「Tongune Tied」に似ていた。

youtu.be

(「茜色水路は10:05〜」)

www.youtube.com

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』について

どこか世界に対して(大なり小なり)フィルターを一枚挟んでいる(世界にコミットしきれていない)人物ばかりが登場する。岩下(田中哲司)は本物の煙草ではなくIQOSを吸い、「手もつなげない」ガールズバーがちょうど良いと言う。あるいは、腰を痛めてあまり仕事にコミットできない。智之(松田龍平)は慎二(池松壮亮)の話をすぐに煙たがり、彼と真摯に接そうとしない。看護師である美香(石橋静河)は患者が死んでも全く心が動じず、また、風俗やキャバクラではなくガールズバーという水商売の中では一番客と(物理的/精神的問わず)密に接する必要がないであろう副業をしている(彼女の飼っている亀の水槽の中の温度は外の気温とは関係なく常に一定に保たれている。さながら死者や他人に興味がない美香そのもののようだ)。慎二は左目がほとんど見えず世界を半分しか見ていない。さらに、すぐに無駄なことを喋りすぎてしまう癖があり、その場における物事の本質が見失われてしまいがちだ(作中で彼らが食べるのは工場で大量生産された冷凍食品。これも世界との隔たりを感じさせる象徴的な物のひとつ。美香の実家でも冷凍食品が登場する)。美香の「恋愛をすると人は凡庸になる」という台詞にもあるように、彼らのそうした「フィルター」は恋愛を通して消えつつある。美香に恋をしてからの慎二にかつての能弁さはない。美香はガールズバーを辞めた。岩下は仕事に支障が出るくらい腰が痛かったはずなのに、コンビニの女の子に会うためにダッシュで飛んでいく(この時点では痛みは完全にないと考えたい)。岩下は最終的には女の子に振られ仕事も辞め、腰の痛みは続いているようだが、どこか希望を見つけたような顔で街を歩いて行く。慎二とアンドレス(ポール・マグサリン)の前を去るときに開いていた彼のズボンのチャックに前半で開いていたチャックとは別の意味を求めるのは穿ちすぎているだろうか。すなわち、かつては「手もつなげない」ガールズバーの女の子で満足していた岩下が、コンビニの女の子に恋をするようになり、世界とコミットし始めたということの象徴だ。ズボンのチャックは「社会の窓」と言うではないか。新宿や渋谷の路上で誰ひとり立ち止まらなくても歌い続け、最後にはCDデビューを果たした弾き語りの女のように、「幸せ」が何なのか分からなくても世界とコミットすることでもしかしたら何かが変わるかもしれない。

一方、智之は、美香とメールのやりとりをしていた際に「応援する」と言った慎二に対して彼を「友達」だと言い、初めて慎二を受け入れた(世界とコミットした)かのように見える。しかし、最終的に智之は死んでしまう。彼の部屋に貼ってあった美香とのツーショットで彼は美香の(向かって)左側に位置している。しかし、この映画では(向かって)右側が正しい位置であるとされる。慎二は必ず美香の右側にいなければならない。岩下と智之と三人で美香の勤めるガールズバーに行った帰り、渋谷の路上で偶然美香と遭遇してその後階段で話をするという二人のほぼ初めて対話のシーンからして慎二は右にいるし、病院の喫煙所で美香の左にいた慎二は自ら右に動き、そうではないと駄目なのだと言う。慎二の部屋で彼のVANSのスリッポンは美香の靴の左側(つまり、向かって右側)にある。エンドロールでは美香役の石橋静河と慎二役の池松壮亮の名前は横に並べられ、池松はもちろん右側だ。写真の中で左側にいた智之や慎二の左隣の部屋に住んでいた老人は死ぬし、大音量で音楽を流している部屋の左隣の部屋にいるサラリーマン(就活生?)がその右隣の部屋の壁を叩いても無視される。部屋を出て直接右隣の部屋に抗議しに行っても良さそうなものだが、そうすることは遂にない。左側が右側にアクションを起こすことはあってはならないことだからだ。であるから、左にいる智之による右にいる美香への恋心は仮初めのもので、本気で世界にコミットするようなものではなかったのではないか。中途半端な恋慕で美香と交わった(ここでは性交を意味しない)智之はこの作品に横たわる左右の関係性によって殺されたのだ。

 (参考になった学部の先輩のレビュー)

https://tana-station.tumblr.com/post/161469412935/藍と人生ーー映画的詩的に完璧な夜空はいつでも最高密度の青色だについて

tana-station.tumblr.com

三浦直之×佐々木敦 ニッポンの演劇#8 「『あなたと』と構築する世界の物語——ロロと演劇の魔法」メモ

f:id:mfvlt:20170126141759j:plain

 

演劇をはじめたきっかけ

宮城県サブカルチャーを享受していた

ほんとうは映画を勉強したかった

日芸の映画落ちたから演劇科に

 大学進学が決まったあとユリイカスタジオボイスの演劇特集のバックナンバーを読み込んだ

制作のやり方がわからなかった一番最初に庭劇団ペニノの制作の手伝いをしにいった

 亀島一徳 もともと演出コース

三浦君制作でなんかやろうよっていって劇場も仮押さえの段階で三浦失踪

保坂和志 『途方に暮れて、人生論』読んで元気に、東京に帰る

帰ってきて書いたものがロロの旗揚げ『家族のこと、その他のたくさんのこと』

 佐々木 話変わるけど小島ケータニーラブというSSWも失踪してる。失踪から帰ってきたあとANIMAというバンドを始めた。こういうことって意外に頻繁に起きてるのかな

 三浦君と亀島君との絆、からロロが生まれたのかな

 力をつけたいから旗揚げしてから一年間は月一で公演ををやってくことにした

 第2期批評家養成ギブスに三浦が来てた

 上京して、トークイベントというものに憧れてた 最初に見たのが佐々木敦本谷有希子のトークイベント

 旗揚げくらいの時期、失恋もあった

『LOVE』とか『ボーイ・ミーツ・ガール』みたいなものは失恋がいしずえに

 →佐々木 失恋を癒やすためだけならもっとただの純愛路線とかになってもいいようなものなのに、そうはならない ロロの場合は変なことになる それは意識してる部分とそうなっちゃうということと両方あると思うんだけどどう?

三浦 自分だけのことじゃないぞというのをむりやりつくりたかった、演劇でやる理由あるんじゃないかなという話を

 舞城王太郎古川日出男が作家の中で三浦にとって大きい二人

 マキューアン『贖罪』物語って素晴らしい、物語に携わりたい

 高校の時携帯小説みたいなものは書いてた

洗濯機でデータ消えた

佐々木 山下澄人iPhoneで小説書いてるね

 映画大林宣彦が大きい。リメイク版の転校生が好き。黒沢清に影響受けて一時期蓮實重彦の本を読んだりした。あとはカラックスとか?

 いろんな、本・映画・音楽とかのコラージュを意識的にやってるのか?ほんとに何でも書いて良いよといわれたらずっと『LOVE』みたいなものを書いてしまう。だから外側のフレームが必要で、それにまつわる本や映画を見ていって戯曲を書く

 ロロはめちゃめちゃアテ書き。

 『朝日を抱きしめてトゥナイト』、本番前日でも書き上がってなかった メンバーとカラオケ朝まで行って、幕あくまでに書き上げた

 徳永京子 『官能教育』シリーズ

に関しては自分でも出演した舞台上で虐げられたいという欲望?

佐々木 稽古場でも虐げられてんじゃん!

 母親が見に来た 母親に面と向かっておれは童貞だよと伝えられたのは大きかった

 ダイアローグの筋肉をつけたいいつ高

サンプルの『蒲団と達磨』に出たとき、ひとつの場所が決められていて、その外側を連想させる作風って連作になりそうだよなとおもった 漫画の連作短編のような

高校演劇の審査員 ストレートな青春ものをやりたい

もともと1,2,4のプロットが決まっていて、いつ自体が盛り上がってきたから間隔空かない方が良いと思って3を2016年の年内にやろうと新規に考えた

10くらいまでやりたい

 いつ高はあまりアテ書きしてない、シューマイはアテ書きの部分が多いが

 1時間という時間は、ひとつ何かパンチラインが、強いサビがあればもつ

何もなくても1時間ってもつ、高校演劇でよく描かれるような「葛藤」とかなくても 1時間ってもっと色んなことができるよっていうのをいつ高でやりたかった

 佐々木 いつ高、これこそ現代口語演劇 平田オリザの言った現代口語演劇にすごく則っている 劇の中で流れる時間と観客の時間が一致している

時間と空間が固定されているのは、中のストーリーというのも重要だけど、その固定によって外の世界を想像させるというのが重要だというのが平田オリザが言っていることだと思う

 60分に限定された演劇なら、普通、演者が一旦舞台から出てまた戻ってきた場合、その外への「距離」というのはある程度限定されている

いつ高の場合スマホや電話、映像を使って「距離」を伸ばしている

その伸ばし方がネット以後の伸ばし方  今の「距離」の離れ方

 三浦 昨年1月に初めて海外旅行 一週間NYに行ったがホームシックになりホテルに引きこもってストリートビューで日本の自宅の付近やアゴラ劇場などを見ていた その時の感覚がいつ高を作るときにずっと残っている

旅行中、公園で本を読んでいるとき鳩がいた 鳩は日本にもいる 鳩は同じだ!その瞬間涙が止まらなくなった

読んでいたミランダ・ジュライの写真集にも鳩が出ていた気がする

そのままフーターズに入るとエッチなお姉さんにミランダ・ジュライだ!と言われたのと、人に煙草くれと言われたのが唯一のコミュニケーション

 三浦一番感動するのは、小説とか物語が立ち上がった瞬間

空間が動いた、演者が喋った というところが作りたいからロロの本公演はまたいつ高と少し違うのかなと思う

 いつ高、ずっと続けていくし1時間だし、終わらせなくていいや、伏線としていつか回収すればいいや、という気持ちになれたのが、書けるようになった理由かもしれない

 佐々木 三浦自身は男子校だったからいつ高で描かれているものはそもそもファンタジーのようなものだけど、それを描くことに喜びを見いだしているの?

三浦 高校という場所自体がもっている物語がすごく多い

『ハンサムな大悟』や『あなたが~』のとき、三浦君って場所がないよねと言われた

いつ高に関しては高校という場所を設定した時点でお客さんがすでにそこに物語を見いだす

学生時代は帯に青春と書かれていたら取りあえず買って読むみたいな感じで、フィクションとしての青春を味わっていた おれはこの青春を生きていないけどきっとどこかにこういう青春が存在しているんだ!と嬉しかった

→それはどういう感覚

イリヤの空UFOの夏』の最初の出会いのシーンのようなことが現実に存在してくれ!と思った

 佐々木 高校時代、中高を描いているものは絶対読みたくなかった 身につまされる可能性があるものは見たくなかった フィクションでまで自分の現実に近いけど明らかに自分とは違う現実を見たくなかった、(三浦の場合)それと真逆だ ライトノベルを読んでいる人たちはもしかしたら三浦のような感覚で読んでいるのかもしれない 自分の世界にそっくりだけど自分がそこにいないという物語を見たいという感覚

 三浦 金城一紀レヴォリューションNo.3』とかすごく好きだった

佐々木 三浦の場合、フィクションが現実を再解釈するために使われているよね

 佐々木 岸田戯曲賞の少なくとも候補に『あなたが~』が残らないわけがないと思っていた ハイバイの『て』が候補にならなかったのも意外だった イキウメの『太陽』も 芥川賞のように選考理由が開示されていない

 ロロ、9月の本公演の新作は、前回が歩くと言うことだったので走るということに 音楽を使う 音や歌が背景を立ち上げる作品になったらいいな タイトルは『BGM』

 東京に出てくる前 地元宮城県でも音楽とか映画とか漫画とかは摂取できた でも、そういう趣味の友達と話すとき、演劇については「野田秀樹」と言ってもピンとこないレベルだった そういうところを繋ぐようになりたい

 パルテノン多摩の話

佐々木 ロロはラッパーが増えたな 森本さん、もしかしたら東葛スポーツで一番ラップ上手いのでは

 ライバルは範宙遊泳の山本卓卓